| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
第一巻 10号
宗教とスポーツ
シドニーオリンピック競技大会が終わった。柔道では天理大学出身の野村忠宏選手が金メダル、篠原信一選手が銀メダル、そして細川伸二全日本柔道コーチが天理大学の教員であり、また銀メダルを獲得したシンクロナイズドスイミングの井村雅代ヘッドコーチも天理大学出身であることを考えると、天理大学出身のアスリートたちの活躍はすばらしかった。天理大学の体育学部は、校名発揚に今回もおおいに貢献した。
スポーツは強いにこしたことはないが、肉体の耐えざる訓練を通して、精神にその成果が結果として反映されなければ、意味はない。より速く、より高く、より強くのオリンピックモットーも、あくなき人間の肉体の限界を超えようとする意味だけでは、単に動物のもつ力への限りない挑戦ということになる。オリンピックが単なる肉体の限界に挑戦する祭典であるなら、それを見ている動物たちは、人間のスピードのなさ、脆弱さを見てあざけり笑うであろう。
もともとオリンピック競技は、ギリシャの最高神ゼウスに捧げられたスポーツ祭典であった。つまり宗教儀式の一部としてあったのである。そして、またオリンピック運動は平和運動であった。その故に、競技が始まると戦争は少なくとも競技開催中は休戦となった。相撲も考古学者によれば、葬祭という宗教儀式に深く関係している。また、聖フランシスコ・ザビエルは、あらゆる運動競技にひいで、特にピロタという球技に熱中するあまり、その右手はひどく変形していたと言われる。のちにザビエルは、スポーツ万能を恥じ、みずからの手首、手足を荒縄で縛り付けて肉体を痛めつけながら、精神の世界を磨いていったと言われている。
当時のキリスト教会においては、肉体は精神と比較して、罪の原点であり、それを否定することが魂を磨き上げることに繋がると考えられていたのである。肉体を神のものとする天理教の教えとは対照的である。しかし、資本主義が発達し、近代化とともにスポーツが労働者や市民に広く親しまれるようになって、キリスト教会も肉体の鍛錬は、精神にとっても大切であると認めるようになった。
クーベルタンは、当時のフランス人青年のひ弱さに比べて、イギリスのラクビー校の青年たちの強健さに触発され、オリンピック競技の復活を思いついたのである。そしてスポーツを教育に取り入れようともした。オランダの歴史学者ホイジンハは、人間をホモ・ルーデンスと規定した。つまり遊ぶ存在というわけだ。そして人間の文化は「遊びの中で、遊びとして、発生し展開してきた」と論じた。そして遊びから生まれたスポーツは、いまや巨大な文化装置として、世界の経済や政治に影響を与えるまでになったのである。遊びは聖なるものに通じる。同じように、スポーツの極限における崇高さはまさに宗教的とも言える。その熱意、協調力、忠実性、集中力、自制心、誠実性、いやしの力、祈りといった要素は、スポーツにも宗教にも共通している。しかし、スポーツは仕事としても成立するし、単なる暇つぶしとしても存在している。「陽気遊び」を神の人間創造の目的とする教理を通して、スポーツのその周辺領域がどのように見えてくるかという視点から、天理スポーツギャラリー展の期間中にシンポジウムの開催を考えてみた。 |