| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
第一巻 8号
世界語としての日本語を考える
日本人は過去千年間、漢字という化け物に悩まされてきた。IT(情報技術)革命の時代に、外国と対等に渡り合うためには、漢字かなまじりの日本語では太刀打ちできない。ローマ字なら対等に勝負ができる。このように本年の6月17日、天理で開催されたおやさと研究所主催の「言語と文明─世界語としての日本語を考える」という講演会で、文化勲章受賞者・梅棹忠夫は主張した。
急激な情報量の増加と経済のグローバル化は、いまのところ英語を世界の共通語としてすすめられている。英語が分らなければ、経済や科学・技術においても世界からとり残される。そこで、日本にも英語第二公用語論がでてきた。英語を学ぶ時間があるなら、正しい日本語をもっと勉強すべきで、英語はスペシャリストに任せておけばよいという意見もある。
言語と文化は不可分という常識がある。伝統的にはそうであろう。それに対して、外国人の日本語学習者は、世界で多く見て400万人であるが、その数がいっこうに増えないのは、第一に漢字を使うからであり、第二に日本語には敬語や、人称などをめぐって、実にむずかしい多様な表現があるからであるといわれる。そこで、日本語を国際語として普及するために、外国人のために新しい文法を考案することが大切であると、国立国語研究所は「簡約日本語」なるものを人工的につくり出した。その中身を示すと、たとえば『北風と太陽』の話は、「まず北の風が強く吹き始めました。しかし北の風が強く吹きますと吹きます程、旅行をします人は、上に着ますものを強く体につけました。とうとう北の風は彼から上に着ますものを脱ぎさせますことをやめませんとなりません
でした。」となる。
こういった表現が「簡約日本語」の初段階で、五段階を経て正常な日本語に辿り着くように工夫されているという。そこまでして日本語を「国際化」する必要はないという猛反対がいっせいに巻き起こった。筆者は「簡約日本語」なるものの中身には賛成しかねるが、日本語を外国人に学びやすくしようとすることには大賛成である。しかし、日本語の普遍化を可能にするその中身は、ローマ字化の方向が理想的であると考える。
現・未来の日本文明を運転してゆく装置としての日本語、特に経済、政治、科学・技術上の受・発信においては、たとえそれが「おぞましい」日本語であっても、許容されるべきであろう。日本語は世界の言語のなかでも、動詞の変化ひとつをとってみても、きわめて論理的で、文法的にも簡潔にできている。つまり、普遍性ある世界語としての値うちをもっている。問題は表記法なのである。
日本の大企業は、社内において海外との通信や取り引きを、コンピューターでわざわざローマ字から漢字に変換する労力を省いて、ローマ字で通信しているところが多い。ローマ字化は書き手に同音意義語を使わないという意識を生むので、聞き手にとっても分かりやすいという利点を生む。
学生時代から講義ノートをローマ字で書き、盲目になるまで日記をローマ字で書いてきた梅棹は、分かち書きさえしっかりしておれば、分かりやすさは慣れの問題であるという。日本人が長らく親しんだ和服から、機能的な洋服に着変えて、洋服を着こなしているように、漢字からローマ字に移行することも同じことですという、梅棹のアナロジーには説得力があった。
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