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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2003年10月号
危険に満ちた好機としての「病い」─からだに聴く
人体への関心が様々な理由で高まっているのか、色々な解剖学の本がカラー版で出回っている。頭蓋骨の下方に骨格器官が人体をかたどり、その周りに筋肉がくっついている。各種内臓器官もリアルに描かれているので、解剖の経験のない私などは、自分の体内がかく成立っているということを頭で知ることができても、その各器官を直接自分の手で触ることができないのだから、自分のからだと言いながらそうであるという実感のないことおびただしい。私たちは通常自分のからだの中のことはそこに異状が発生しなければその存在すら忘れているのである。つまり、「病い」になってはじめて人間は己の体内を具体的に意識させられる。
解剖図には頭、胴体、両手両足等など、部分部分が集まってからだができていることが示されているのだが、不思議なことにからだの70%を占めている「体液」の書いてある解剖図などは見たことがない。死体解剖なども同じことを何回も繰り返しているうちに筋肉や骨だけになってしまい、それがからだというものの知識を医学生にあたえるとしたら、人間は物質化したものとして捉えられがちになる。先日某医大の附属病院で「新しい技術を自分のものにしたかった」という功名心にかられて経験のない腹腔鏡手術を行い、患者を死に到らしめた医師が逮捕されたというニュースが大きく報じられていた。
こうした人体実験に等しい事件は、どうも「体液」の欠落した解剖による人体物質観から来るのではなかろうかと思いついた。そこで以前に読んだことのある野口三千三氏の『野口体操・からだに貞く』(柏樹社)をひもとくと、次のように書かれてあって、なるほどと改めて納得したのである。つまり、「生きている人間の身体は、皮膚という生きた袋の中に、体液的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいるのだ」という考え方である。氏はこのことに気づいた時おおいに驚き、その瞬間に死体解剖学の知識が生きている自分のからだと突如として一体化し、まったく新しいからだ観がうまれ出たと述懐している。その気づきの先に「体液主体説・非意識主体説」が導き出され、野口体操が誕生する。私も東京の朝日カルチャーセンターで1日入門し、先生から直接「野口体操」の手ほどきを受けたことがある。からだのひねり動作ひとつで、ひらがなを描きコミュニケーションを可能にする先生の「水袋」のような柔軟な動きは、強く印象に残り、その日は御自宅まで押しかけて自説を拝聴した。氏には『野口体操・おもさに貞く』(柏樹社)という名著もある。その主張は、人間が人間であることの基礎感覚は、地球の中心との「繋がり感覚」であり、神意(自然の原理)は、重さというコトバによって告げられ、筋肉はそれを貞き取ってからだの動きに翻訳するというものである。また「筋肉は重さに抵抗し重さを支配するためにあるのではなく、重さという神のコトバを貞く耳である」という。野口説を充分に解説するスペースはないが、コトバとの関連で展開していく身体観はきわめて宇宙的で独自の思想を形成している。そこでいま注目したいのは、からだに「きく」(貞く)という聴覚的表現である。
「きく」といえば、「病い」を危機に満ちた好機として捉えた『からだの智恵に聴く』(日本教文社)というアーサー・W・フランクの名著がある。フランクは「病い」はからだが送ってくれるシグナルであり、私たちに多くの「窓」や「鏡」を提供してくれると説く。「病い」は我々から生活の一部を奪い取っても、いままで何気なく過ごしてきた生き方とは対極に位置し「自分が主体となるような人生を選ぶ機会を与えてくれるのである」とも述べる。39歳で心臓発作に襲われ、40歳で癌を経験した著者は、もうすこし「病い」とつきあい、「病い」を通して学び、過去の自分を取り戻すことよりも、「病い」を通して自分のことを変えようと望んだと言い、回復を「病い」の理想的な終結と考えるのは大きな問題があると主張している。そこには「病い」を神の「手引き」とする天理教の教えに他方から強烈に説得力をもって接近してくる考え方が見られる。つまり、究極の教えが「裏守護」の地平からも明らかにされつつあるような印象を受ける。たとえば、「病い」の回復を理想とすれば、慢性病や死に到る病には何の価値も見いだせないということになるから、「病い」に際して「我々は回復よりもむしろ新生というべきものに目をむけるべきなのだ」と「病い」に対する積極的姿勢の重要性を説いている。
「病い」は、からだとのコミュニケーションを可能にしてくれる。天理教のかしもの・かりものの教理からすれば、「病い」を貸し主である親なる神との対話を交わす自己新生への絶好のチャンスと捉える覚悟ができれば、病気の治癒だけにこころを奪われずに、「病い」を自分の生きざまをよりよくするための起爆剤とし、医療に絡み取られそうになるからだを奪いかえすという主体性の確立に思いが向くであろう。「病い」を神の「手引き」とするかしもの・かりものの基本教理は、進化する先端医療の中であらたな地平からあらたなことばで、従来の心性還元論を超えて、より積極的に深化・展開されることが思想的にもいま求められている。
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