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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2003年3月号
「からだことば」と天理教用語
『文藝春秋』3月号が「日本語大切」という特集を組んでいる。堺屋太一は−「カタカナ外国語」は亡国の道−という一文を寄せ、外来語を日本語訳に出来ないこの国の現在の知的衰退力を憂う。また3月19日のNHKテレビニュースによれば、年間500語のカタカナ語が増え、政府各省庁の白書を国立国語研究所が調べたところ、5000語以上のカタカナ語が使われてたという。一方、立川昭二と養老孟司は−「からだことば」って何?−という文春の対談で、ことばからからだが抜け落ちていく事例を挙げながら、このままではからだは文化性を失い、ついには人間性を失った得体の知れないものになっていくのではないかと心配している。
先端科学技術や国際政治が次々と生み出すことばに日本語の翻訳が間に合わない。連日新聞の見出しにもカタカナ語が飛び交う。ことばは知的努力の集積であるから、日本語が衰えているとすれば、この国の知的努力が減退していることだ。実際、この20年ほどの間、ことばを操る知的作業者の努力不足は目を蔽いたくなるほどだと堺屋は嘆いている。同感である。
「からだことば」は、日本語からだんだんと消えつつある。立川は医学部の一般教養の講義で学生に「血」のつくことばを書かせたところ、「血液」「血管」「血圧」「血糖値」など医学用語ばかりで、「血縁」「血族」「血色」「血潮」といったことばが出てこないことをなげいている。つまり「血縁」ということばが浮かばないのは自分が、祖先、親、兄弟と血でつながっているという感覚が薄れてきている。せめて「血色」ということばぐらい挙げて欲しい。コンピュータの数値ばかりを気にして、患者の顔色を見ることを忘れる医者が出てこないかと心配だという。喜怒哀楽の表現も、たとえば最近は「腹が立つ」「断腸のおもい」という「からだことば」は消えて、「頭に来る」「ムカつく」「キレる」という感覚語が頻繁に使われるようになった。つまり、からだの実体がだんだん遠ざかり、最後に抽象的な薄っぺらい感覚だけが残ったというわけだ。このことは平行して「かりもの」であるからだの意味や、その働きの実体も遠ざかっているのではないかとも考えられる。
かつての教育には、からだにしみ込ませるような「身にしみる」感覚と体験が確かにあった。養老は、教養とは「鼻につく」ものでも、「頭につく」ものではなく「身につく」もんだと言い、また暮らしの中でからだの経験が消えると、ことばも失われるのではないかと言う。私たちの信仰生活のなかでも時代が変わると同じことが言えるのではないか。
筆者は最近、自分のからだを動かすはじめての経験を通して、「からだことば」の貴重な発見をした。昨年1年間を通しての日曜日は、殆ど神戸か天理でアースバッグによるシェルター建築に仲間と汗を流したのである。つまり、土に水とセメントを加えてシャベルで練りまぜる。数人で一緒に練ると「練り合う」ことになる。それを土嚢袋に入れて、建築現場まで「運ぶ」。運んだ土嚢を上からドン付きでしっかりと叩きつける。つぎつぎと土嚢の層を円形に「叩きあげ」「積み上げ」ていく。この誰でも出来る単純な肉体作業を繰り返し、約600の土嚢を積み上げ、叩き上げることによって、直径3m高さ5m近くのドームが一棟完成するのである。「叩き上げ」られたのは、実は、我が「身」であったことに気づいたのであった。
土をシャベルで「練る」には、腰を据え、力を込め、足下を見る。そして目的とする土嚢袋に煉り土を入れなければならない。気をそらすと土は土嚢袋からこぼれ落ちる。談じ合う「煉り合い」の進め方にもヒントを与えてくれる。また「理」「道」「心」「別席」などといった教語にも、「理を運ぶ」というように、土嚢を「運ぶ」という「からだことば」の動詞が使われている。「身」をもって「運ぶ」ことを体験するところから、「からだことば」の精神的意味が深まっていく。この「からだことば」の究極は、他宗教には見られない「かぐら」と「てをどり」であろう。これが勤められるとき、からだがことばになり、ことばがからだになる。からだとことばが合体し、二つ一つになり、それが交叉するところから不思議な意味がほとばしり出るのである。
教語には「からだことば」が数多く見られる。その極めつけはたとえば「身」ということばだろう。「身上」「身の内」「身の障り」「身に掛かる」「身が迫る」「身につく」などにみられる、「身」という「からだことば」は、単なる「身体」という生理的な次元を超えて、精神の領域にまでその意味を延ばしていると理解されねばならない。「身」は英語のbodyとは異なり、時として「身を入れる」というように心(mind)を指すときもある。したがって「身」の訳語は存在しない。そもそも大和ことばの「み」とは非常にひろい意味を持っていて、それは「実」であり「肉」であり「味」でもあったのである。
市川浩は『〈身〉の構造』の中で、「身」の透徹した解析を行い「〈身〉は、単なる身体でもなければ、精神でもなく−しかし時としてそれらに接近する−精神である身体、あるいは身体である精神としての『実存』を意味するのである」と述べ、「われわれが生きている〈人間的現実〉を指し示すことばとして、〈身〉以上に適当な用語はみいだしにくいように思われる」と言っている。されば「身の内」の障りにおける「身」の場合も、単に空間を占める一身体、一個人のやまいにとどまらず、神の手引きとしてその黙示的意味は限りなく広く、深遠であると言わねばならない。
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