| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2004年9月号
「天理柔道・野村選手のV 3に思う」
第59回目の終戦記念日8月15日の各紙朝刊には、
谷・野村のアテネ五輪柔道アベック勝利を伝える写真と
「イラク戦闘拡大死者100人超す」という記事が一面を大きく飾っていた。
オリンピックはその憲章に謳われているように目指すところは先ず世界平和運動であり、
国際文化交流である。
しかしアテネでは、テロを警戒し1万数千人の警官が配置され、
一方イラクでは、国民会議の近くに迫撃弾が落ちた。
世界は平和なのか、戦争なのか。
腹立たしいほどの低俗バカ番組があふれるわが国のテレビ番組の中で、
スポーツが視聴者に嫌なことを忘れさせ、爽やかさを与えてくれるのは救いであった。
スポーツを「見る」人は、 鍛え抜かれた自分の持てる能力の全てを
出して見せるスポーツを「する」人の美しさによって、癒され励まされる。
病む身体を癒す医師は、患者一人ひとりと現実に対面するが、
アスリート達はスクリーンを通して何百何千万人という視聴者に、
たとえば一瞬のうちに逆転するという私たちの日常生活では
めったに見られないドラマを見せてくれる。
このスポーツにおける感動の共有は芸術にも見られるし、宗教にも通じる側面を持っている。
しかし、スポーツはまたナショナリズムや国際政治に利用される危険を持っている。
1969年のワールドカップ中米地区予選では、エルサルバドルとホンジュラスの試合が
引き金となって「サッカー戦争」が実際に起こった。
後者が審判の判定に不服を唱え国交断絶を宣言し、
両国は国境地帯に軍隊を集結させ本格的地上戦に突入したのである。
世界のどの新聞もいまやスポーツの話題が満載である。
スポーツは商業主義やナショナリズムを巻込み、情報先端科学技術の発達で急速に巨大化した。
スポーツ評論家玉木正之は『スポーツとは何か』(講談社現代新書)において、
さまざまな問題を分析・提起し、現代をスポーツ「暴走化の時代」と捉えている程である。
スポーツも戦争も、「する」者にとっては厳しい現実そのものであるが、
「見る」者にとってはドラマやフィクションのような感じをもたせる。
このバーチャルな映像がもたらす感覚の持続が危ない。
迫撃弾がスポーツや戦争を儀式化する自分の身の回りに落ちたらどうするか。
終戦記念日8月15日の朝刊をめくりながらこんなことを考えた。
天理柔道の伝統的攻めの精神を試合で遺憾なく発揮した、野村忠宏選手が獲得した金メダルは、
夏季五輪通算100個目に当たるという。
そういえば来年は天理柔道生みの親である中山正善2代真柱様の生誕100年目にあたる。
生誕99年にあたる本年は、「元の理」における99年経って皆出直すといわれる
成人の象徴的な意味を持つから、天理柔道に代表される天理スポーツも
その歴史の中で出直しの境界に到っているのかも知れない。
出直しとは物理的反復ではなく、精神の脱皮であり、魂の再生である。
天理が育んだ野村選手を一つのモデルとして、
それに続く天理アスリートの人材の養成が求められる。
五輪三連覇の前人未到の偉業は、天理スポーツの物語としても将来受け継がれ、
独自の天理スポーツ教育に生かさなければならない。
その為には、私たちが単にゲームの勝敗に一喜一憂することを超えて、
歴史・教育的な視座から冷静な目で天理スポーツの過去と現在を振り返ることが必要であろう。
先人の実績を顕彰し、継承・展開する天理スポーツ教育を念頭においた器、
何度も提案するように「天理スポーツ殿堂」の設立がいま必須である。
天理教ほどスポーツを愛している宗教教団は世界に珍しいのではないか。
天の時を逃がしてはいけない。
|