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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫


2005年12月号
「ほこり」の教理と環境倫理のキーワード


 人間が生きるということは、自然を破壊するということと同じ線上にある。農地を作るのも、火力発電所を作るのも、人間が生きるためであるから、基本的には自然を破壊している。したがって、自然破壊の問題は現実的にその「程度の問題」に還元されると言ってよいだろう。人類存続のために開発は必要だが、どこまで自然破壊が許されるかの基準は国々の法律が定めている。しかし、自然に国境はない。たとえば地球温暖化の問題は国境を越えた問題である。そこでどこまで破壊が許されるかの「程度」を国際的に法によって設定しようとする。しかし、それは至難の業である。何となれば,その基準設定の「程度」は、国やその置かれた地勢によっても異なるし、地域の文化や経済、教育、社会の歴史や政治状況によっても異なるからである。加えて個人の性格や、ライフスタイルによっても、その基準は同一であり得ない。つまり、環境問題で各国が一手一つになるのは難しい。「程度の問題」は、つまるところ限りなく国家利己的な問題、さらには個人的な社会的、心理的、宗教的な問題に還元されると考えられるからである。
 天理教の実践教理に「八つのほこり」の説き分けがある。神意にそわぬ人間の「心得違い」が「ほこり」にたとえられているが、ここでも「ほこり」の「程度」の問題が、環境問題と同一線上に浮上して来る。人間の「心得違い」である「ほこり」とは、その「程度」を越すと人間の心身の疾病をもたらすという点で環境破壊と同じである。神が箒として払われる「ほこり」の代表として、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんが説き分けられている。また、この「ほこり」が積み重なることによってもたらされる心身・環境破壊の問題は、天災地変も含めて神の手引きと教えられる。
 人間は環境破壊それ自体を目的として自然を破壊しているのではない。それは人間が「ほこり」を積むために生きているのではないのと同じである。このように考えを進めて行くと、「ほこり」の教理と環境倫理に通底するキーワードは「程度」という考え方であることに気づく。「適度のよくはよろしいなれど」とも説かれている。またよくの「資質」を考えることが大切で、たとえば理想を実現したいという欲それ自体は肯定されるべきであり、その実現の手段が教えに沿って検討されるべきなのである。をしいにしても「天理に適わぬ」という条件がついている。「勿体ない」の心使いを、をしいの「ほこり」と混同してはならない。はらだちにしても義憤は正義を成就する力として許されるのではないか。うらみでも「我が身恨み」は肯定されているのである。このような次第で、「八つのほこり」の教理はいくら諳んじ、反復説教しても、その「程度」と「資質」が正しく思案されねば、窮屈な単なる道徳的な戒めに終る危険がともなう。
 親神は「ほこり」を人間が生きる上において必然的に生起する他者的なものでもあると認め、その「程度」と「資質」を問われた。清浄なる山中の仙人ではなく、「ほこり」立ち上る里の世界に生きる仙人たれと教えられたが、「ほこり」の「程度」を決定するのは、人間一人ひとりに投げかけられた問題である。国家はそれを法制化するが、信心はそれを個人のこころに突きつける。「ほこり」の「程度」とは、一面里に生きる子供である人間の弱さを思う親心であろう。しかし、そこには「程度」を心定める個人の厳しい責任が問われている。親心への甘えは絶望につながることをも知らねばならない。

 
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