| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2005年2月号
「自然災害の「偶然性」と「予測性」」
2004年12月26日の月次祭祭典のさなか、インドネシアのスマトラ島沖でM9の地震が発生、巨大津波がインド洋沿岸諸国を襲い、村落や市街地を飲み込んで20万人以上の死者を出した。連日マスメディアは、史上最悪の被害状況をつぶさに伝えている。
2001年1月26日の祭典中にはインド西部の大地震(M7.9)が起こっている。世界たすけを祈願して行われる祭典のまっただ中で、未曾有の天災が続いて起こるというめったにない「偶然」の中に、神の意志を汲み取ろうとするのは信者として自然な心理であろう。とりわけ「おふでさき」(6-91,
116, 8-58)にある、地震や大風、そして津波や山ぐえ(山崩れ)といった自然災害は、月日親神の残念立腹の現れであり、とくに社会の高山に立つ人たちへの「かえし」、警告であるという意味の教えがよく知られているからである。しかし、おびや許しを教祖から最初に戴いた三女おはるは、1854年6月、産屋の壁が落ちかかるほどの大地震のさなか安産している。地震は年末まで揺れ続き、翌年10月には江戸大地震(M6.9)が起こっている。このころ教祖は残った3町あまりの田地を年切り質に出された。この谷底へ落ち切れたひながたの道は、上記の「おふでさき」に繋がっている。
政府の地震調査研究推進本部は、日本列島における地震発生率が最も高いとみられる「要注意の活断層」に、天理市を東西に走る奈良盆地断層帯をあげている。2005年は、1703年の元禄地震(M8.2)と1854年の安政大地震(M8.4)から数えて、大地震サイクル期に近い1世紀半の節目にあたる。加えて巨大地震は同時に或いは連動して起こるといわれる。この巨大地震「予測」に、宗教は何を深く語り得るか。
天理教では、世界は鏡、人は鏡と教えられる。しかし、一方で「澄んだ心が鏡」とも教えられるから、心が濁っていては鏡たり得ないという厳しさがこの教えにはある。つまり、心が澄んでいなければ、世界の真実や神の心、そして何を為すべきかは、心の鏡に映らないので、災害からなにも学ぶ事は出来ないのである。ここにも自然災害が神の残念立腹の現れであるという信仰的意味の解釈を疎外する原因がある。
私は以前から必然ではなく、「偶然」が新たな感動と行為を導き出し、その地平から神の姿である不思議が現れて来るということを信じてきた。津波は地震が原因であるから、それは物理的には「偶然」ではない。地震も海底のプレートの移動が原因である。無数に近い系列をもつ諸原因の過去的連鎖を辿ることは無意味であるとしても、自然現象の因果関係の中に人間が介入して来ると、そのとたんにややこしい「偶然性」という問題が発生する。古来より著名な哲学者や思想家が格闘し、結局はみなもてあましている問題が、この人間と人間、自然と人間に介在する「偶然性」と運命の問題であった。ボードリヤールは神に「『偶然』は私をくたくたにする」と言わしめているほどである。ショウペンハウワー、ニーチェ、ドストエフスキー、ヤスパース、ハイデッガー、九鬼周造ら、近代理性主義の克服をめざす思想家が迫った「偶然性と運命」の問題を、哲学者木田元は30年を費やして、挫折を繰り返しながらようやく
1冊の岩波新書に整理したが、依然問題は霧の中であると告白している。しかし、それは災害の持つ「偶然性」に対して、無関心、無行動であってよいと言っているのではない。
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