| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2005年3月号
極楽浄土と「二河白道」
未曾有のスマトラ沖大地震が起こした高さ数10メートルの巨大津波が町を飲み込む様相をテレビニュースで何回も見せられた。突如「二河白道」という譬え話しがよみがえった。津波が火災を呼ぶことは過去の記録によく知られている。1993年の奥尻島の津波では192棟の家屋が焼失しているし、カナダでは津波が原因で石油タンクが爆発し一町村が火災で全滅している。また沖を行く石油タンカーが津波で沈没し、流れ出る原油に火がついて火の海が沖を襲ったという事故もあった。「二河白道」とは、天理教教祖が19歳のときに受けられた浄土宗の「五重相伝」の四重において講義される、荒れ狂う「火」と「水」の河に挟まれた極楽浄土へ至る細道のことを指している。
白道とは西方浄土への往生を願う信者が入信から往生に至る経路をあらわしている。白道の白は清浄の信心をあらわし、細道とは4、5寸、ほぼ人間の足底の幅である。つまり極楽への道は厳しく両足で立てないほどに狭いのである。それだけではない。荒れ狂う二河は深くて底知れず、背後からは群賊悪獣が迫ってくるので前へも後ろへも進めない。立ち止まっていては死を免れない。そのとき東からこの道を行け、必ず死の災難は無いという声が聞こえる。西からは一心正念にして来れ、吾はお前を護ろうという声が聞こえる。その声を信じて敢然と前進し続けると極楽浄土に至るという話である。まだ見える火の中もあり淵中もとか、それを越したら細い道ありとおふでさきに記された有名な譬え話は、当時の人たちにはよく知られていた「二河白道」を裏守護と見立てた表現であると思われる。もちろん天理教ではあの世における極楽や地獄といったものは否定される。あるとすればあの世にあるのではなくてこの現世にあり、さらには信心の細道を歩む人間の心の中にあると教えられる。しかし信心の絶対的状況における前進への決断の不可避性においては両者は共通している。
火の河は激しく燃え上がる衆生の瞋恚、水の河は底深くどよむ貪愛を象徴している。
火の河や水の河は、いずれもおふでさきの「火の中」「淵中」に対応している。また二河の瞋恚と貪愛は八つのほこりで説かれる「はらだち」と「よく」に対応する。山坂や茨ぐろうや崖道は東の娑婆の世界、西は浄土につながる「ほんみち」に対応している。みかぐら歌の「ここまでついてこい」とは「細道」を渡って大道である本道に来いという意味で、行く方向は極楽浄土ではない。悪魔や天使も不在である。悪霊といったものも教えの中では一切説かれていない。天理教にあってはあの世は完全に否定されているのである。また、細道を渡り往還道に出たとしても、「細道は通りよい、往還は通り難い」と逆説的である。極楽浄土を目指すという発想より、「今」としての現在の心のありかたを重視するという教えである。このことを「今がこのよのはじまり」という言葉で説かれている。つまり、道を歩む心のプロセスに信仰の重心が置かれているのだ。したがって、あくまで心が「澄み切りましたがありがたい」と歌われているのであって、ありがたいのは極楽へ行けるからではない。
浄土宗でも最近では西方極楽浄土論は否定される傾向にあるようである。そもそも白隠は「往生は禅の見性と同じ」と述べているし、浄土宗増上寺の開山・酉誉上人も「往生トハ諸宗ノ悟道ノ異名ナリ」と言っている。つまり浄土とは、回心の瞬間、真理に触れた時の感動の瞬間をさす「心のありようのこと」ということになっているらしい(『宗教の教科書12週』菅原伸郎著、トランスビュー、2005)。面白いかな。
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