| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2005年4月号
創設者記念館開設の意義─蘇った「若江の家」
2005年4月23日は天理大学創設者中山正善先生(1905〜1967)の生誕百年の日である。この日に天理大学創立80周年の式典が行われ、記念事業として創設者記念館が開館される。この建物は大正13年の春、創設者の天理教「管長公勉強室」として大阪若江の里に竣工した洋館である。創設者は東京帝国大学入学までの2年間、この建物から大阪高等学校に通学した。昭和30年創立30周年を記念して、この洋館は天理大学構内に移築され「若江の家」と呼ばれてきた。
「若江の家」はその後、半世紀に亘り、会議室や事務室、そして留学生宿舎などに使用され、その後空き家になっていたが、1年間の保存修理を経てこのたび創設者の生誕百年を記念し創設者記念館として活用されることとなった。この洋館の中で、天理外国語学校創設のビジョンが熱く語られ、天理大学の前身が誕生したのであるから、「若江の家」は「建学の精神」を宿した母胎としての意義をもつ。ひんやりとしたこの建物のなかに入り、独自の内装や洋風の暖炉、会議のための獅子のデザインを施した12人はゆうに座れるオーバル型のテーブルや椅子、そしてステンドグラスなどを見ると当時の時代の空気が漂ってくる。
洋館の歴史は開国が大きなきっかけとなっている。幕末の横浜、神戸、長崎、など開港五都市といわれる外国人の居留地には、コロニアルな洋館が次々と建築された。有名な長崎のグラバー邸は1863(文久3)年に建てられた現存する最古の洋館である。近代化を進める明治政府は、文明開化の終末期である明治10年代になると、擬洋風な建築には納得せず、海外から鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人建築家などを招き巨大建築を手がけた。その教え子にはのちに東京駅などを建てる辰野金吾、赤坂離宮などを建てる片山東熊などがいたが、明治20年代になるとこれら日本人建築家たちによる、石とレンガの重厚な本格洋風建築が建てられるようになる。
大正末期に竣工した「管長公勉強室」は、洋館といえどもコロニアルでも奇抜な擬洋風でもない。また国家が組織的に導入した石造り、煉瓦造りの系統でもない。1階には和室2部屋と洋室2部屋があり、2階には同じ配置で洋室2部屋と1部屋の和室、そして洋風の勉強室が1部屋つくられている。文明開化とは欧米化を意味するが、洋館的外観を持つ「若江の家」の内部構造は、洋風と和風が見事に調和されたものとなっている。天理外国語学校発足時に教えられた外国語が近くから遠きに及ぼすというところに重点が置かれ、夫婦で海外伝道をという思いから男女共学になったことも、この建築内部構造が思想・文化的に和洋の調和を醸し出していることと無縁ではないと思われる。和か洋かの二者択一的選択ではなく、まさにグローカルな直観に建物の構造自体が貫かれている。その理念は和洋の包摂を目指す異文化伝道にもつながるものであろう。
改修復を経た記念館は、創設者の軌跡を辿る個人史と、創設者が生み育てた天理図書館、天理参考館の意義、そして創設者自らがスポーツマンであり、また国際的に知られたスポーツ振興者であった史実を語る天理スポーツ略史紹介の4展示室から成っている。いずれも創設者が生涯かけて開拓・貢献した文化・学術的領域における国際的偉業の蓄積を収斂・展示したものである。創設者記念館として再生した「若江の家」は、宗教私学が独自に持つ建学の精神のシンボルであるばかりではなく、その実践を問われる場所として、あらたな歴史的使命をもって蘇った。活用に携わる関係者の未来への責任はまことに重大であるといわねばならない。
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