| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2005年7月号
「回廊を歩く意識」
天理教の教会建築史を調べているうちに、特に宗教建築空間における「廊下」というものの存在と、あるとすればその意味が妙に気になりだした。加えて、無ければその意味を作り出してやろうという不思議な気概が生じてきた。その発端は、中山正善天理大学創設者生誕100周年記念シンポジウム「宗教と建築:建築と音楽」を準備しているころにさかのぼる。創設者が管長公勉強室として学生時代に使用していた洋館・若江の家が創設者記念館として開設されることもあって、当時その洋館を長い「廊下」で連結していた和館や神殿の配置にも関心があった。シンポジウムに講師として出席した東京大学の建築史家である藤森照信教授が、そもそも伝統的な日本建築には「縁側」というものがあっても、「廊下」というものはなかったという発言がいっそう筆者の好奇心を刺激したのである。寺院や神社の境内を長方形に囲むのは「歩廊」であり、「廊下」ではない。伝統的日本建築や神社にはさまざまな「縁側」があっても、それも「廊下」ではない。どうも本格的な「廊下」というものが出現したのは、文明開化以降ではなかろうかと思われるのである。
幕末・明治以降、文明開化と西洋化にともなって、おびただしい数の洋館が我が国に建てられた。当時の上流階級は、旧来からの和風邸宅に加えて洋風建築を同じ敷地内に建築した。洋館は接客を主目的としたものであったが、両者は奇妙にも渡り「廊下」で連結して使用されていた。一つの敷地にまったく異質のデザインの建物を「廊下」でつなぎ、一体の建物として受容するというあり方は、ひろい世界の建築史には見ることができない、著しく調和に欠ける建築法であると建築史家は口をそろえて批評する。しかし、筆者はまったく異なった二つのものを、そのままそっくり「廊下」でつなげるという発想を重視している。
当時、洋館は文化の最先端を行くという誇りを持って建設された。ところがこの洋館には食堂があっても調理のための台所がない。料理は「廊下」で繋がる和館で調理したものを洋館の配膳室で盛りつけしたものであった。ここには「廊下」で連結してのみ機能していた和洋折衷の住宅の萌芽が見られるが、その役割を触媒として支えたのが「廊下」であった。
天理教教会本部の神殿と教祖殿、そして祖霊殿は「廊下」で繋がれている。その「回廊」は三殿の縁側を含めると1kmを超えた距離になる。多分世界一長い「廊下」ではなかろうか。「回廊」の下は参拝客が中庭に出入りできるように楼門状になったところがある。「廊下」の床面はその分だけ盛り上がっている。四方から礼拝できる神殿のぢばを中心として、八町四方に建築進行中のおやさとやかたは、三殿を繋ぐこの「回廊」と入れ子構造になっている。その長さ約4km弱。
「廊下」を歩くものは、向かう方位に位置する建築空間によってその意識も変化しているが、神殿の「廊下」を四つ這いになって拭き掃除をする信仰者の姿勢からは、礼拝場の正座での祈りとは別の、さまざまに異質なものを「つなぐ」視線が、その独自の空間構造と姿勢から生まれてくるのではないかと思われる。「廊下」というものが与える信仰的エネルギーにも注目したい。
明治11年のころ、信者の上田民蔵がお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は「民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで」と仰せられたと『逸話篇』に記録されている。これまで何となく読み過ごしていたが、宗教建築史学の上から見ても、これは驚くべき予言であったと感嘆している次第である。
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