| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2005年8月号
「変化する宗教建築空間の東西」
キリスト教の礼拝場である教会は、一般に礼拝時間以外は鍵で閉められる建物のことであると思われている。たとえ鍵が開いていても礼拝場所に足を踏み入れるのには、異教徒にとってある種の勇気がいる。国内海外を問わず、ひとりで礼拝時間以外にキリスト教の教会の建物の中に足を踏み入れたことのある者は、入り口に土産物を扱っているひとがいたとしても、礼拝堂の中はがらんとして人ひとり見当たらないという特異な雰囲気を即座に想起するであろう。さまざまな仏像が正面に安置されている寺院と、視線のはるか上方に見られる孤独なイエスの十字架のぶらさがりを比較するだけで、礼拝の対象に向けての礼拝者の心的状況の相違が分かるような気がする。宗教的建築構造のあり方は、その宗教の教理を反映したものと見られるから、教外者がどうこう言う資格はないが、文化の相違とはいえ、神社や仏教寺院の開放性と比較すると、キリスト教の教会は敷居が高いという印象を日本人には与える。それは多神教や汎神論とは異なる、一神教における人間と神の他者性が礼拝場の様式に表現されているからであろう。しかし、最近その様子が少しかわってきたように思われる。
たとえば、ローザンヌ大学名誉教授のベルナール・レモンは、その著『プロテスタントの宗教建築─歴史・特徴・今日的問題』(2003)の中で神学的洞察のするどい現代教会建築論を展開している。1960年くらいまでのプロテスタントの宗教建築は、礼拝建物のほかに牧師とその家族が住むための牧師館しか知らなかったといわれるが、日曜学校や青年会などの教区的性格の活動の必要性が増えてくるようになると、それでは教会が社会の要請にこたえられなくなった。つまり、礼拝を捧げる建物だけでは、キリスト教共同体が必要とするものを満たしていないということになるという反省と自覚が生まれてきたというのである。そこで今後主流となる建築モデルは、付属室で補完された礼拝堂ではなく、ほかのさまざまな用途の部屋のほかに礼拝専用の空間を含むような総合施設であるという。厳密に礼拝専用の建物だけでは、これからの教会はその社会的役割を十分に果たし得ない。そこでレモンは、教会は礼拝時間以外には鍵で閉められている建物である事をやめて、週日中でも都市の喧噪のなか誰でもが利用できる瞑想の場所になるべきだと主張する。
京都に住む宗教学者の山折哲雄によれば、最近寺院を訪れる拝観者のなかの行動に著しい変化が見られるという。以前は安置されてある仏像の前で座して拝をしていたが、最近は仏像の前を素通りして、部屋の外の縁側から庭を静かに眺めている人たちが多く見られるようになったというのである。つまり、庭を取り込んだ自然の彼方に、あたかも神や仏の気配を感じているように見えるというわけだ。この変化の背景には、伝統的な自然と一体化した日本人の信仰、精神性が見られるというが、日本人はいま多神教から汎神論を経て、天然自然の中に神を感じようとしているのではないかともいえる。それは一宗一派に帰依することを通してではなく、個人が自然の観察を通して、スピリチュアリティや宗教性といわれる神なるもの聖なるものに自由に近づこうとする傾向にも通じるものがある。
信者ばなれを防ぐために教会を一種の総合施設的な宗教空間に意識的に転換しようとするプロテスタントと、庭を愛で自然を疑似宗教空間として見直しているかのような日本人のあり方、またとりわけその拝観者を庭から仏像に引き戻そうとは意識しない寺院に、歴史と伝統の相違を見る。
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