| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2006年2月号
「誰か身代わりに立つ者はないか」
明治14年、天理教教祖の長男秀司(1821〜1881)が危篤になった。その時、お願いづとめをさせて頂きたいという側近の人たちに向かって、教祖は「誰か身代わりに立つ者はないか」と仰せられたという。この固唾を呑むようないきさつについては、山沢為造が『みちのとも』(初代真柱20年祭特集号)昭和8年12月5日号において回想している。為造の回想以後、管見によればこの決定的な瞬間において教祖が投げかけられた「身代わり」という限界状況における課題にふれた文言や論考は見当たらない。
「別席」の話には、17、8回の官憲の弾圧による教祖監獄へのご苦労に際して、秀司は何度も教祖の「身代わり」になりたいと申し出たが、「身代わり」になれなかったことの苦しみが語られている。また、「おふでさき」では「みのうちにとこにふそくのないものに 月日いがめてくろふかけたで」(12:118)とも仰せられている。つまり、秀司の足痛は通常の足痛ではなく、立教を促した「身代わり」としての痛みであり、生涯その痛みを台として、教祖は先人の心の成人を急き込まれた。そして、その「たすけ一条」にむけられた「身代わり」の極みは、「つとめ」の完成を25年の寿命を縮めて急き込まれた教祖年祭の元一日にあった。「ひながたの道」において、魂の因縁から教祖とともに生涯を全うした中山家の人たちは、それぞれがそれぞれの「身代わり」の道を歩まれたとみられる。
この解釈に立つ時、秀司の命の瀬戸際に立って「誰か身代わりに立つ者はないか」との問いかけは、時空を超えて存命の教祖の言葉として現代によみがえる。つまり、その言葉は「いま、お前たちは、誰のために、そして何のために、身代わりに立つことができるのか」という実存的主体的決断を迫る問いとなって、私たちの胸の内に鋭く投げ返されて来る。教祖年祭の意義は、それぞれがそれぞれ自身の「身代わり」の対象を信仰的に明確に定めるところにある。問われているのは、自分は何のために生きているのか、何のために命を投げ出しているかの具体的な目標射程の決定である。いま世界でそれを敢然と実行しているのは、悲しいかなテロリストの一群であろう。「世界は鏡」がここにも読み取れる。
教祖31歳の頃、疱瘡にかかった預かり子を二人の娘の命と自らの命を「身代わり」に立てて助けを乞われた。「身代わり」となった二人の子供は願い通りに夭折し、預かり子は助けられた。教祖の「身代わり」の願いが叶い、可愛い我が子の臨終の枕元に座された教祖は、この瞬間から自分の命も「身代わり」に神に差し上げたもの、亡きものと納得されたと拝察される。かくして預かり子一人の命を乞う教祖の自律的、個別的「身代わり」の心定めは、立教の時に至って、他律的に親神によって全人類救済の普遍的「身代わり」に転換・昇華されることとなる。「ひながたの道」における「身代わりの道」は、立教以前にその種が蒔かれ、伏線がしかれていたのであった。立教後、自らの流産の予言的体験を通して示された厳粛な「をびやためし」も「をびや許し」のための親の「身代わり」的痛みを通してであった。
神の「ためし」には、「身代わり」の痛みが共存している。「ひながたの道」における「身代わり」は、一過性の利他的・犠牲的行為や贖罪ではない。「身代わり」は、教祖50年の「ひながたの道」を支える連続する重要な「かたち」であり、倫理・道徳を超えた「身代わりの道」としての天理教教理であると考えられる。この自覚と実践なしに「魂の成人」はないのではないか。
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