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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫


2006年4月号
小林秀雄と天理教

 近代批評の元祖といわれる小林秀雄(1902〜1983)は、今日出海との「交友対談」(『毎日新聞』昭和50年10月10日付)で、中山正善二代真柱について次のように回想している。「私のおっかさんは天理教だったんだよ。まだ戦争中のことだった。天理教のお祭りに招待された。盛大なものだったな。(中略)それが中山さんに会った最初だが、最後は死ぬ前だった。そのころ私は勾玉に凝っていてね。石上神宮に、あそこで出土した有名な国宝の勾玉がある。それを見に行った時、会ったんだ。勾玉を見に来たと言ったら一緒に行くという。近所にいるが、石上さんにお詣りするのは初めてだと言ったよ。家にも玉があるから見せるというので帰りによって御馳走になった。その晩、逝くなった」(逝去は翌日の12:10が正しい)。
 天理教教会本部の来客名簿を記した「玄関日誌」を確かめてみると、小林秀雄は昭和42年11月13日の13時55分に来訪し、17時48分に辞去と記録されている。また、小林は戦前のことであろうか、真柱邸に気楽に滞在して、毎日酒を一週間ほどくらっていたら、もう帰ってはどうかと言われたとも語っている。多分、巨匠のことだから、国宝や重文の宝庫である天理図書館や参考館でひそかに調べものをしに来ていたのではないかと思われる。
 秀雄は小林豊造・精子夫妻の長男として東京市神田区で生まれた。母精子は明治13年、東京市牛込区で城谷謙・やす夫妻の長女として生まれている。秀雄は母精子のことをいつもおっかさんと呼んでいたが、ベルグソン論を語った『新潮』の連載「感想」(単行本未刊行作品)では、その冒頭を母の死から次のようにはじめている。
 「終戦の翌年、母が死んだ。母の死は,非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う」と述べ、「西行」や「実朝」、そして「モオツアルト」も戦争中に書き始め、戦後本にした時「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、極く自然に大事にしていた自分の悲しみを真面目に表現したまでだと言っている。つづいて母の霊前の蝋燭が切れ、夕方外へ買いに出たとき、行く手に大きな一匹の蛍が見事に光り飛んでいるのを見て「おつかさんは、いま蛍になっている」という考えから、どうしても逃れることが出来なかったという「童話的経験」を詳しく語っている。また小林は、鼎談で平野謙からある文芸時評の執筆動機について聞かれたとき「僕は学校を出てから、金がなくってお袋を養わきゃならない。そのために文芸時評を書いた。それが一番確かな動機です」と答えている。水道橋駅のプラットホームから一升瓶を抱いて酔っぱらって転落し奇跡的に救かった事故にも、小林は「母親が助けてくれた事がはっきりした」と述べ、それは「考えたのでもなければ,そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである」と言う。また小林は、不良少年になりかかっていて、大学に入るつもりはなかったが、おっかさんが望んだので入ったんだと娘白州明子に語っている。結婚式もおっかさんが望んだので式を挙げた。水道橋の事故からは、ことあるごとに「おっかさんのお陰だ」と繰り返していたらしい。
 この小林の母が、熱心な天理教信者であったことについてはあまり知られていない。母精子は大正10年、小林が19歳の時に、肺患のために鎌倉に転地療養しているが、その時に天理教布教師との出会いがあったのだろうか。小林の人生に強い影響を及ぼした精子の入信の時期や動機については不案内である。『邪宗門』で知られる作家高橋和巳の母親も熱心な信者であったが、彼は母親について何かを語っているのだろうか。読者にご教示頂ければありがたい。 

 
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