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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫


2006年8月号
現実の中の「祈り」と「祈り」の中の現実

 世界宗教者平和会議第8回世界大会が8月下旬、36年ぶりに国立京都国際会館において開催される。政治家や学者の平和会議ではないので、そこでは各宗教団体の「祈り」がおこなわれるであろう。「祈り」は宗教現象の中心にあり、「祈り」のない信心はないからである。筆者はこの種の宗教間対話を含む国際会議には数回しか参加したことがないので、最近の傾向については不案内である。しかし、30数年前にシンガポールでおこなわれたWCRP主催のアジア宗教者会議で各宗派代表が演じた、舞台における「祈り」のデモンストレーションはいまだに記憶に残っている。ゾロアスター教の紐をつかった口祷は、あたかも奇術のようなふるまいであったが、ことばがわからないので「祈り」の動作が演技のような印象をあたえたのであろう。天理教の「てをどり」はどのような印象をあたえるのであろうか。
 一方、突っかけサンダルを履き布袋をさげ、白い帽子とみすぼらしい日常のワンピースをまとって登壇した、マザーテレサの英語による「祈り」は、なるほどと彼女の「祈り」が日々の救済活動とつながっていたことを思わせた。「祈り」と日常が断絶していない。彼女の演説は、「わたしは最も貧しき者の代表としてこの会議に出席した」ということばにつづいて「主よ、貧しさと飢えのうちに生きかつ死んでいく、世界中の私たちの同胞に仕えるために、私たちをふさわしい者としてください」ということばではじまった。会議に出席していた我が国からのおおくの宗教関係者は席を立って一斉に舞台に近寄り、カメラのシャッターを押した。その俗なるシャターの騒音は、見事に聖なる「祈り」の静かな世界に侵入し、なるほど紛争はかくして起こるという思いが皮肉にも脳裡をかすめた。この忸怩たる象徴的事象は、すがたをかえてさまざまなところで生起しているであろう。宗派代表者によって舞台で発言される世界平和への立派な教説が、その背後にあるさまざまな教団の現実や個人の草の根信仰のありかたなどと断絶していては絶望的である。
 先日、『ダーウィンの悪夢』というドキュメンタリー映画を観た。1960年頃アフリカ最大のビクトリア湖に実験的に放された巨大な淡水魚ナイルパーチは、200を超える在来種を食べつくして湖の主となった。そこに最先端技術を駆使した欧州投資の魚産業が出現した。住民たちの素朴な生活環境は破壊され、もたらされたものは蔓延するエイズ、娼婦、そしてストリートチルドレン。白身魚は日本とヨーロッパへロシア製のおんぼろ飛行機が運ぶ。積載量55トンの往路に輸送される荷物にはアフリカ内戦向けの武器もある。人工的植物連鎖とグローバル化が生んだタンザニア湖畔の阿鼻叫喚の地獄に、神父のむなしくひびく「祈り」のことばがあった。
 「祈り」ということばは、天理教原典にはない。もっとも近いのは「おふでさき」の「しやん」(思案)ということばであろう。教典の「祈念」や「祈願」は、いずれもprayerと英訳されているが、この訳語を読む教外者は天理教の「祈り」には不案内であるから、それぞれの宗教の同義語にかぶせて理解するだろう。しかし、ことばは着物であるから中身は運ばない。本教の共同的「祈り」のかたちは「つとめ」のかたちをとおして徹底しているが、個人的「祈り」の方法や内実については未開拓である。祭文例集はあっても、「祈り」のための規範文集や指導書はない。教えの根幹をともなって語られる「思案」ということばの中に「祈り」の重要な要素である「黙想」と「観想」の方法を、いま教学的にまとめておく必要があると思われる。

 
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