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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫


2007年1月号
天理大学東アフリカ調査研究復活に向けて

 いま、アフリカ大陸がさまざまな意味で世界の注目を集めている。思い起こせば、天理大学は1950年代後期から1960年代において、日本のアフリカ研究の牽引車としての役割をはたし、創設者である中山正善二代真柱様は、わが国の東アフリカ調査研究活動におおきな人的、財政的、精神的支援を行った。この史実は、日本オリエント学会活動などへの貢献とともに、関係者にはひろく認知されているところである。天理図書館にあるアフリカ研究の貴重な学術文献は、3冊の分厚いカタログに分類整理され、将来本を含めると5,000点をゆうに超えている。東アフリカの主要言語であるスワヒリ語辞典や、西アフリカの民族語辞典なども本学の教員たちによって編集出版され、わが国のアフリカ学におおきく貢献してきた。
また、おやさと研究所は、創設者の意志によって東アフリカ研究の目的でタンザニアの東北部キリマンジャロ山麓のアルーシャに4万7千坪余りの研究基地を確保していた。天理教におけるコンゴの医療支援活動やブラザビル教会の布教展開の背景には、創設者によるアフリカ民族文化に関する学術研究の強烈な関 心と隠れた伏せ込みがあったのである。この真実を知らずに、本教のアフリカ伝道を語る資格はない。
創設者は、教務の激務をぬって生涯をとおして19回にわたる海外巡教と視察を行い、帰国後すべてに亘って旅行記を出版している。昭和8(1933)年、アメリカ合衆国への船旅による3ヶ月余りの巡教は、シカゴ世界宗教大会における講演をかねていた。列車で米大陸横断を行い、ワシントンにおいては、「ネグロ人のホワード大学」を訪問しているのがとくに注目される。黒人学長室では「白人に対する不平や、卒業生の動き、それにネグロの就職問題等」にわたって会話が弾み「同じ、有色人種である点に一脈相通ずる所がある」とその印象を語り、「有色人種の覇者として日本人の活躍を嘱目すると祝福されて学長に別れた」と、『アメリカ百日記』には記されている。ネグロ人最高学府のホワード大学総長・ジョンソン博士との対話を通して、世界人類一列きょうだいの教えが、創設者の胸先に痛烈によみがえり、この出合いをとおしてアフリカ研究と黒人布教への確たる動機づけがなされたものと筆者は推測している。昭和35(1960)年、コンゴでの黒人信者の誕生も決して偶然の為す業ではなく、創設者の信念と覚悟の持続が可能なさしめたと認識するのが大切であろう。
 コンゴからケープタウンの喜望峰へ南下し、エチオピアの首都アジスアベバへ向かわれる途中、現ケニアのナイロビ空港に夜半1時56分に到着、約6時間の飛行機待ちの時間を利用して、創設者は「怪獣の横切る道を12マイルはなれた真夜中のナイロビ街へと」タクシーで走り、ニュースタンシー・ホテルのロビーの椅子の上で2時間あまりの仮眠をとっている。その間の様子も『北報南告』にくわしく記述されているが、1981年にはじまった「餓えた子にミルクを」という本教のアフリカ飢餓救援運動が、ケニアを対象国とされたのも、創設者によって20年前にその種まきがなされていたことに気づくと、実に不思議な感慨におそわれる。
 教祖百二十年祭後第一年目にあたる、本年亥年の2007年は、奇しくも創設者没後の40周年にあたる。天理大学がその合図立て合いの時旬の意義に目覚め、本学卒業生が活躍する東アフリカ伝道への学術後方支援にむけて、全学的プロジェクトを立ち上げることが強く期待される。アフリカ大陸は、教祖が仰せられた「谷底せり上げ」の21世紀におけるグローバル化の負の象徴的貧困にあえぐ「たすけ」の場であると信じるからである。

 
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