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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫


2007年2月号
近衛秀麿と天理教青年・婦人会会歌に思う

 『天理教青年会会歌』(作詞明本京靜)と『天理教婦人会会歌』(作詞明本京靜)は近衛秀麿の作曲である。前者は昭和7年10月27日に撰定、11月21日に近衛指揮のもとレコーディングされた。青年会会歌誕生の年は、その23年後天理教音楽研究会を創設された中山善衞前真柱誕生の年と合図立て合っている。婦人会会歌は、青年会会歌誕生の1週間後の11月28日、近衛と明本両氏に製作が依頼され、昭和9年の2月に完成をみた。青年会会歌が撰定といわれるのは、作曲と作詞を両者に依頼して出来上がったのではないという意味であろう。その根底には、おぢばを訪れその盛況に魂を揺さぶられた京靜と秀麿の自発的意志をうながす時旬の「成ってくる理」という不思議な神の守護が働いていたように思われる。
 秀麿は、京靜をともなって、中山為信本部員宅に数回宿泊したことがあるといわれる。それは為信の小学校の頃からの同級生でもあり、のち著名な外交官・実業家となった岩井尊人が、2代真柱に秀麿を紹介したところからはじまっている。尊人は東京帝大在学中の大正4年に『天理教祖の哲学』という大冊を著している。また昭和8年「みかぐらうた」の英語訳をレコーディングした時代先取の秀才でもあった。一方、著名な声楽家でもあり作詞家でもあった京靜は、おぢばを去り比叡山に登った時、天理で聞いた教えとその強烈な印象が忘れられず、山上で一編の詩を詠い上げたという。後しばらくして京靜は天理を訪れ、為信宅で秀麿と再会した。そのとき京靜が差し出した詩歌に目をとおした秀麿は、自分がその詩に曲を付けてみようという感覚におそわれ、その場でいまも為信宅に現存している古い日本楽器製のピアノを奏で作曲に及んだらしい。ちなみに、このピアノは、2代真柱の姉にあたり為信と結婚した玉千代(後の3代婦人会会長)の母であるたまへが、娘のたっての願いにより唯一の嫁入り道具として中山家から持たされたものであるという。
 青年会会歌は、天理高校の校歌として甲子園球場でしばしば演奏されるからひろく知られている。初演の記録は判然としないが、『アメリカ百日記』において、2代真柱が海外巡教に「秩父丸」で横浜出港(昭和8年6月15日)する際に、「みかぐらうた」と青年会会歌が「誰音頭を取ると云ふではなしに、湧き起り…陸上も、船上も」合唱されたと記している。この頃には、その勇躍するメロディーはすでに全教に膾炙していたのであろう。
 婦人会会歌(ニ長調)の旋律は、青年会会歌(ハ長調)の20小節に対して21小節からなっている。前者の頭の小節は4拍子の4拍目から次の小節につながる。その弱起をうけて青年会会歌は次の小節の頭から強起ではじまり、両会歌は共時的に演奏できるように工夫されている。青年会会歌の旋律は「見よ空高く 輝くひかり」と中天から高音程が「ひかり」の「羽翼」となって垂直に降下して来るようなきらきらとしたイメージをかもし出す。一方、婦人会会歌は「かがやくあけぼの いま陽は出でて」と母なる大地の稜線から昇る水平感覚の低音から始まる。まさに「ぎ」「み」に象徴される親神の守護を縦横主柱軸に定置させ、それを展開・収斂するテンポで重複表現されているかのようだ。両曲は「天理青年進めわれら」「いざやいさめ臺なるわれら」で共鳴完結している。
 2006年、時あたかも教祖120年祭の年『近衛秀麿─日本のオーケストラをつくった男』という音楽界の巨人・近衛評伝がはじめて世にでた。秀麿の天理教婦人会会歌と青年会会歌作曲にうかがわれる心象風景については、次の機会に述べてみたい。

 
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