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「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫


2007年4月号
「祈り」と「つとめ」と「まつり」─天理教と一神教

 祈りは、人類の精神史のなかでさまざまに進化してきた。祈りの原型は、原始人の素朴な祈りであった。その祈りの対象は、呪文や呪術をとおして、死者や天地の至高神やさまざまな自然神、あるいは守護神にむけられていたであろう。この原初的な祈りのなかには、すでに感謝や帰依、崇高、確信といった純化された現代の祈りの基本をなす要素がみられる。祈りは古代宗教をとおして倫理的側面をとりこみながら、神秘主義をまきこんで、一神教の予言者宗教における祈りや、人格神を否定する禅定の両極に分化してきたと思われる。ことばを主体とする一神教の祈りと、ことばを「教外別伝・不立文字」として否定する禅定の祈りの両極を、天理教の「祈り」のなかにおいてどのようにして包摂できるかを考えることが、天理教の世界伝道にとって最重要の課題であることを認識することは大切である。
 天理教における共同的「祈り」は「かんろだいつとめ」においておこなわれる。「つとめ」がおわると、よろづよ八首と十二下りの「てをどり」が九つの鳴り物を入れてはじまる。そのころから、2時間に及ぶ祭典の全時間を礼拝場で厳粛に過ごす参拝者もいるが、東西南北の礼拝場で「つとめ」に参加した万をかぞえる参拝客は、徐々にながい東西の回廊をつたって教祖殿に移動しはじめる。中山みき教祖は「元の理」によれば人間の母親としての魂をもち、いまも存命でひとしく子供である人類の救済に働いているというのが天理教信仰者の根底にある。その母なる存命の親に出会うために、「つとめ」をとおして「ぢば」に「かえり」、自らの魂がその宿し込まれた「ぢば」から再生して存命の母に相まみえるのである。遠視・俯瞰すると、途切れなくつながって移動する参拝者は、母の胎内から回廊という産道を通過して蠢いて出てくる無数の生命のようにもみえる。そのうごきは「元の理」における泥海中の無数のどじょうの様態を連想させる。神殿と教祖殿をつなぐながい回廊は、「つとめ」により再生した参拝者の生命が、ふたたび生みの母親に出会うための産道であり、参道でもあった。毎月26日の祭典に参加することは、信者にとって魂のあらたな誕生を感覚することであり、その確認は信仰のよろこびを増幅させる。とすれば、「つとめ」と「まつり」は、自らの生命の厳粛なる「宿し込み」と祝福すべき魂の「再生」であると理解されるから、祭典においては一神教にみられる時空間の聖俗区分を天理教にもとめることは筋違いであるという考え方も成り立つであろう。
 天理教の祭典はながい年月をかけて自然のうちに現在のかたちに収斂してきた。現状を肯定的にみれば、以上のような考え方も可能であろう。しかし、国内外、ぢば以外の海外伝道地域において、教理がただしく伝わるために、この祭典のながれがそっくり受容されるべきであるとはいえないであろう。この問題は天理教が世界化するために次世代にのこされた文化的課題である。ぢばの祭典は、父なる神と出会う欧米の一神教的厳粛性より、その母性的ゆるやかさ、聖俗区分のあいまいさにおいて、より人間的であり、どちらかといえばアフリカ大陸や中南米の土着の宗教儀式における陽気な雰囲気がただよっているような感じさえあたえる。「かんろだいつとめ」をその荘厳性において原理的・父性的とすれば、つづく「てをどり」は実践的・母性的側面をあわせもっているとも考えられる。したがって、共同的にも個人的にも天理教における「祈り」は、この両者をつなぐ内実がもとめられるのである。陽気ぐらしへの「祈り」と「まつり」は、父性と母性、理性と感性、そして沈黙とつとめの調べ(音楽)をあわせもつ親原理から成り立っている。

 
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