| 「グローカル天理」巻頭言集 井上昭夫
2007年7月号
小さな実践モデルを考えよう
21世紀の開幕は、1998年の国連第53回総会において提唱されたイランのM・ハタミ大統領による「文明間の対話」の構想の骨子が、国連の「文明間の対話国際年」(2001)に結実してはじまった。ユネスコ憲章はその前文において、「戦争は人の心の中にうまれるものであるから、人の心の中にこそ平和の砦を築かねばならない」と謳っている。その主張の目的は、人類共生への「創造的平和」の理念を実現するところにあった。そのためには、20世紀の負の遺産である他者の略奪と支配におもむく「戦争の論理」や、経済的貧困・社会的差別につながる「構造的暴力」を超えなければならないとまとめられている。
2001年、国連大学主催の「文明間の対話」国際会議が7つのセッションに分けてひらかれた。
それは、1)文明間の対話の歴史、2)多文化社会と文化変容、3)文明間の対話─課題と機会、4)アジアからの貢献、5)普遍性vs独自性、6)文明間の対話の政治的側面、7)異文明への理解─活発な文明間の対話に向けて、といったテーマであった。異文明間の相克と共生や、発展途上国と先進諸国の対等性等、「文明間の対話」にいたる問題は多岐にわたるが、難問解決にむけての筋道は、理念的にほぼ明確になったと評価されている。しかし、その問題解決の実践分野については、現実に効果的なことはほとんど行われていない。その証拠に世界はますます混沌の様相をあらわにしている。
ハタミにとって「対話」とは、「真理へ到達し、他者を理解する最良の方法」として位置づけられる。「対話」とは「自己を語り、かつ他者に耳を傾ける」努力である。しかし、皮肉にもこの年の9月11日、米国の経済・軍事を象徴する建物に相次いで自爆テロが決行された。その後米政府は、仲介に入った関係イスラム教代表との「対話」を「拒絶」して、テロの元凶であるとされるビン・ラディン率いるアルカイーダを殲滅するという理由のもとに、アフガニスタンの空爆へといっきに突入していった。ビルが倒壊し、逃げまどう人たちのすがたに、ある人は黙示録を想起し、一部ではその行為を芸術的な作品になぞらえて讃美する人もいた。政治家や識者には、テロはなぜ起こったのかという配慮をめぐらす余裕はなくなっていた。そこには「報復の正義」のみしか存在していなかった。その余波をかうように、正義か邪悪かの二者択一主義におかされたブッシュ大統領は、イラク空撃・侵攻の行為におよび、イラクはいまテロ連鎖による地獄の様相を呈している。
一方、アフガニスタンのカルザイ政権は、地方に割拠する元軍閥やタリバンの復活に国家統一からはほどとおい状況に追い込まれている。筆者は9.11事件以後7回アフガニスタンをおとずれ、カブール大学や現地NGOと共同研究・活動をとおして、アフガニスタンの紛争地においてささやかな自立支援を行ってきた経験から、実感としてアフガンをふくめた中東の未来には悲観的にならざるを得ない。
以上のような次第で、現代は「文明間対話」と「宗教間対話」が「文明の衝突」と「宗教の衝突」に無力のまま、両潮流が交錯しながら打ち寄せる「泥海」世界の波動鏡のようだ。人間創造・救済の理話である天理教学の「元の理」的視点からいえば、時代は人間創造の「元一日」のふりだしに戻りつつあるという感じがする。そこで一天理教者にも、陽気ぐらしへの教理論や説明だけではなく、痛烈な自己批判をともなうグローカルな世界的実践モデルの構築がもとめられる。「泥海」における平和への実践モデル(「ひながた」)は、「どじょう」(「元の理」)のように小さく身軽で多岐多様であるほうがいい。分かりやすいからである。
|