若江の家は中山正善天理教「管長公勉強室」として
大阪の若江岩田の地において大正13年の春に竣工した 。
そして、昭和30年に天理大学の前身である天理外国語学校創設の
30周年を記念して現在の位置に移築された。
創設者が大阪高等学校時代、この洋館の建物の中で、
天理外国語学校創設のビジョンが熱く語られ天理大学の前身が誕生した。
若江の家は天理大学の「建学の精神」を宿した、
いわば建学の母胎としての 意義を持つ。

▲若江の家 南側より
▲大阪高等学校時代の創設者


 


 

▼天理大学杣之内キャンパスの西南の端に立つ若江の家は、大正五年に創刊された洋館建築の専門雑誌「住宅」の中に紹介
 されているあめりか屋(大阪支店)の設計で、施工は大林組だと聞いている。専門雑誌「住宅」は天理図書館にほぼそのバッ
 クナンバーが揃っており、表紙には「寄贈中山正善氏」と押印されている。洋館建設にあたって創設者はこの建築専門誌を購読
 し、ひそかに調査研究を進めたことが窺われる。筆者は後に展開される天理の宗教建築の独自的構想の原型は、創設者が置
 かれたこの時代における文明開花の歴史的潮流に無縁でなかったと考えている。「住宅」を注意深く読んでいくと、当時の我が
 国の文明開化の諸相が建築という営みを通してかいま見られ、文明開化が導入した洋館が、単なる邸宅であることを超えて、
 流入する新しい文化思想を運搬する入れ物であり、かつまた新進気鋭の人物が交流する場所として役割を担っていたことが知
 られる。つまり、それが和魂洋才であれ、和洋折衷であれ、洋館は思想の実践的決断を促し、それを受胎着床させる母胎である
 かのような印象を醸し出している。

グローカル天理巻頭言 「『若江の家』と文明開化」(Vol.4 No.6)より抜粋
下記、写真(1)(2)>>「みちのとも」(大正13年2月20日号)に掲載されたものである


▲(1) 天理教大阪教務支庁に竣工した 若江の家
 ▲(2) ※昨年とは大正12年のことである。

▼また、大阪教務支庁の機関紙「赤心」(大正15年5月5日号)には、
 若江の里に集う教信徒約4千人<大阪教務支庁記念祭並びに青年会講習会>という記事のなかで

 「今年は我が管長公が東京帝大へ御入学のため永らく御住まい下された
  この教務支庁より愈々御離れ下さる事になったので
  特に管長公も今日の記念祭に御臨場下された」・・・と あり、

 写真(3)(4)>>
 そこに若江の家の玄関で撮影された記念写真が掲載されている。
 関係者を背景に中央には椅子に座した学生服の創設者が おぼろげに映っている。
▲(3)
▲(4) 大阪高等学校時代の創設者

▼大正15年から昭和20年の終戦までは、若江の家は事務所や会議室などとして、
  あるいは学生寄宿舎として使用されていた。
 その間、大阪教務支庁は手狭になったので昭和8年に若江の里から天王寺小宮町に移転した。
 その後西成分教会(現・西成大教会) がこの地に移転することとなった。

 写真(5)(6) >>
 西成大教会創立50周年(昭和17年5月27日)において
 若江の家の玄関前で撮られた記念写真である。

▲(5)
▲(6) 中央が創設者二代真柱

▼戦後様々ないきさつを経て、約5年間にわたり、若江の家は在日朝鮮人の求めにより
 その家族等の住居として使用されていた。
 しかし、借用期限も切れ、建物内部の劣化が激しいため転居を求め 、
 昭和27年西成大教会設立60周年にむけて内部修復を行い、
 その奉告祭に創設者二代真柱のお入り込みを頂いた。


 写真(7)>> 西成大教会60周年記念祭と若江の家修理に関する書類 「西成大教会史」より抜粋
 写真(8) >>西成大教会創立60周年(昭和27年10月5日)の記念写真
 写真(9)
>>写真(5)・(8)の集合写真の舞台の敷石の段が若江の家の跡地に建てられた客間の庭園の中に残っている。
 写真(10) >>写真(1)の左下・玄関前の石段の2層が 写真(9)の石段に相当する。
▲(7)
▲(8)
▲(9)
▲(10)

 


▼その後昭和30年、天理大学創立30周年の年に天理大学の現在の地に移築された。 当初の洋館は、木造階建てで、
 約200坪 の建坪であったが、移築に際して、コンクリート造りの地下一階部分が造築された。

  下記、写真(11)>>移築直後の西側から見た若江の家 
▼創設者は大阪高等学校を卒業して大正15年4月東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科に入学された。その頃若江の家を突然
 訪れている。入れ替わりに留守番役として大阪高等学校に入学し、若江の家に隣接した日本家屋で寄宿していた後の平木一雄
 本部准員は、当時の多感な青春時代を振り返って、リンデンパウムの歌詞を口ずさんだエピソードなどその時の様子を
 二代真柱「思い出」集の中で次のように述懐している。

   「『居は気を移す』と言いますが、ここでの三年間は全く快適でした。その15年の陽春4月、真柱様は
    角帽を召され、深谷徳郎先生を伴われて突然来所されました。(中略)お伴して庭を一巡、荒れ果て
    たテニスコートの肌面を見やりながら『この洋館をおぢばの方へ持って行きたいのだが』という意味の
    会話が交わされていました。その時、移植されて間もないと思われるもちの木の幹に削り込まれた傷
    をよく見ると文字の跡、少しふくらんだ樹皮がもり上がって今にも消えそうではありましたが、そして丸
    い幹ですからどこが頭でどこが終わりかわからぬながら判読すると、『八重に咲く 紫匂う 藤の花』と
    あります。」


 全文中から推測すると、もちの木の幹へ文字を削り込んだのは創設者自身であると思われる。
 つまり若江の家が天理大学へ移築されるまでには30余年間の思いがかかっていたことがわかる。

 写真(12)(13)(14)(15)(16)>>現在の若江の家の全景である。


▲(11) 西 南側より
▲(12) 北側より
▲(13) 東側より
▲(14) 南側より
▲(15) 西ベランダより南東に三輪山を望む
▲(16) 西ベランダより南に西山古墳を望む

 


▼天理大学移築後は、若江の家は会議室や学校本部の事務所として使用され、 学校本部がおやさとやかたに移転してからは 主と
 して海外留学生の宿舎として使用されていた。その時々の使用目的に応じて内外の修復改造が各所に行われているために、竣工
 当時の姿に復元するためにはさらに調査研究が必要である。
▼創設者は大阪高等学校を卒業して大正15年4月東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科に入学された。その頃若江の家を突然
 訪れている。入れ替わりに留守番役として大阪高等学校に入学し、若江の家に隣接した日本家屋で寄宿していた後の平木一雄
 本部准員は、当時の多感な青春時代を振り返って、リンデンパウムの歌詞を口ずさんだエピソードなどその時の様子を
 二代真柱「思い出」集の中で次のように述懐している。

   「『居は気を移す』と言いますが、ここでの三年間は全く快適でした。その15年の陽春4月、真柱様は
    角帽を召され、深谷徳郎先生を伴われて突然来所されました。(中略)お伴して庭を一巡、荒れ果て
    たテニスコートの肌面を見やりながら『この洋館をおぢばの方へ持って行きたいのだが』という意味の
    会話が交わされていました。その時、移植されて間もないと思われるもちの木の幹に削り込まれた傷
    をよく見ると文字の跡、少しふくらんだ樹皮がもり上がって今にも消えそうではありましたが、そして丸
    い幹ですからどこが頭でどこが終わりかわからぬながら判読すると、『八重に咲く 紫匂う 藤の花』と
    あります。」


 全文中から推測すると、もちの木の幹へ文字を削り込んだのは創設者自身であると思われる。
 つまり若江の家が天理大学へ移築されるまでには30余年間の思いがかかっていたことがわかる。

大正13年竣工当時の図面 (西成大教会保管)

平面図
▲外観正面図
▲外観側面図

 


▼現在の若江の家の外観の形式や洋館内にちりばめられたステンドグラス、暖炉、天井、テーブル、椅子などに
 見られる洗練された装飾やインテリヤは、大正ロマン時代の洋館の煌びやかな世界を現出していて、
 我が国近代建築史における貴重な生きた文化財であることを示している。


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▼若江の家の創設者記念館としての設立は、2005年の創設者生誕100周年にあたる天理大学創立80周年事業と位置づけら
 れ、そのための設立準備委員会と顧問会議が2003年の4月に発足した。写真は準備委員会と顧問会議で検討されている記念館
 4展示室の企画案(31)〜(34)と、周辺を含めた景観デザインの素案(35)である。 また、若江の家には日本間が3部屋あるが、
 その一部は関係図書閲覧やビデオ映写用とする予定である。

 写真(33)(34)(35)(36)(37)

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